2008年2月26日火曜日

科学における芸術性


 “Artistry in Science”というのが私の研究者としてのモットーというか、哲学の一つである。といっても、この概念はまだ私の中でも煮詰まりきれていない部分があることを、まずご承知おきいただきたい。

 先日テレビ番組の「情熱大陸」で、直木賞作家・桜庭一樹さんが登場していた。番組中の彼女の言葉でビビッと来たのが「創作に入り、食事ものどを通らない」という言葉だ。

 芸術と科学は立ち居地が反対である。芸術家は自らの内面にあるものをどれだけ高め、どのように表現するかに精力を注ぐ。ボトムにいるのは芸術家自身で、彼の上にはどこまであるか見当もつかない、はるかな高い空が広がっている。一方、科学者が対象にするものは自然であり、自然という「答え」、つまり「天井」がある。科学者はその天井に向かって、無数に垂れ下がった、もつれて方向もわからなくなった糸を手繰って昇っていくイメージである。あくまで私個人のイメージ。

 しかしながら、科学者が「発想」し、それをデータという形に具現化する過程は、まるで画家が得た着想をキャンパスに描く様子さながらだ。科学者はまず、何が重要な「問い」であるかを考えて設定し、その問いを「どのように」解くかに傾注する。科学における芸術性は、まさにこの部分で発揮されるというのが、現時点における私の “Artistry in Science” の概念である。独創的な研究は、概して「問い」そのものが独創的であり、解法もまた独創的である、と思う。それは既存の概念や枠を凌駕し、「発想」のレベルまで昇華させた上で全く新しい枠を作り出しているからだ。この部分こそ私の考える”Artistry”である。その意味では、科学でも芸術でもビジネスでも、人間活動として捉えれば共通するものである。

 一方で、問いに対する解法、研究の方向性がある程度決まってしまっている部分があることも事実である。テンプレート、つまり既存の「枠」内での研究だ。既存のフレームワークに則って思考し、既存の実験系に乗ってデータを取れば、一応曲がりなりにも「研究した」と言えてしまう現実がある。このようなアプローチを取っている間は、ビジネス書などでよく触れられる「フレームワーク思考」「MECE」「ピラミッドストラクチャー」などの論理的思考法が相当有効である。

 が、このような枠内での研究は、上記の私のモットーに反する。私がかの小説家の言葉にフラグを立てたのは、その「芸術家たる側面」を強烈に感じたからであり、同時に「食事ものどを通らない」ほどの「創作的」な時間を費やしていない現在の自分に改めて気が付き、慄然としたからだ。

 「徹底的に考える」ことの重要性を以前のブログでも述べた。研究者としてこれからどのような方向性に行くのか、現在激しく自問する日々が続いているが、自分が今感じている壁の実態はここにあるのかもしれない。

 ではどうやってその壁を越えるか?「考えをフル回転できない」原因は、一つには勉強不足。すべての情報をカバーしきれていないため、方向が定まらずうろうろしている感じ。もう一つは取っ掛かりでもいいから、実際に手を動かしてタネになりそうなテーマについて実験してみる。妄想していることと、実際に目の前にあることでは、思考することに対する身の入り方が違うだろう。

 思考すること、発想すること。この大きな壁、もしくは深い谷を強く意識して、最近思いを廻らせている。


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