2016年12月7日水曜日

世界のつながり



「君の名は。」個人的に、映画の世界観に深い共感を覚えたのと、細かい設定をつらつら考えていると全部つながっていて、あまりの緻密さに新海誠やっぱ天才かとびっくりしたので、備忘録代わりに書いてみる(ネタバレ注意)。

この映画では、人のつながりが生む因果が、それを象徴する様々な小道具とともに描かれる。
三葉の母親の死は、父親が「避難指示を出せる」立場になるきっかけとなる。(小説版読んでこの推論が実際に製作サイドの設定と知りびっくりした)
三葉の口噛み酒は3年前に瀧自身が供え、それを3年後に飲みに来ることで世界をリブートするきっかけとなる。
組紐の髪結いは、「昨日の」三葉が瀧に渡して、3年後の瀧が持ってくることで、二人が時間を超えて出会うきっかけになる。なんで三葉が組紐を渡すことになったかというと、奥寺と瀧のデートを自分が設定し、複雑な感情のもとで東京へ行って3年前の瀧と会ったから。

かように、宮水のシステムは人をつなげ、人の感情をハックし、因果を作り出すシステムと言える。因果を手繰って厄災を避けようとするシステム。システムは人をつなぐ。繋ぐと感情がうまれ、人が動く。動くと因果が生まれる。三葉のハードコピーである瀧を幽世に導くために、瀧の三葉への感情と口噛み酒を供えた体験が利用されている。入れ替わった体をカタワレ時に繋ぐために、三葉の感情と組紐のやり取りで生まれた因果が利用されている。
しかし、こういうことはある意味、人の世の「当たり前」である。この「つながりと感情と因果」、そこでの人間のもがきと可能性は、大きなテーマの一つだろう。

もう一つのテーマは「記憶と感情」だろうか。記憶は曖昧である(実際に脳は記憶を平気で改変する)。感情はロバストで、中にはとても強く残るものがある。「寂しさ」は多分その一つで、しかし彼らは「寂しさ」をモチベーションにハッピーエンドにこぎつけるから、見てる方は救われるんだよね。

三葉は東京に行くことを願い、東京の男の子と夢を通じて交信する。東京に移った後は彼の生活圏で生活している。ここは因果の前提。加えて、二人は何かが欠けている感覚と、それを埋めようとするモチベーションを持続して持っている。これはチャンスをものにする心理状態の前提。あとはタイミングだけ。そのタイミングをあの電車の一瞬で描写されるからたまらんT^T 

しかし、本当にチャンスがすとんと自分の中に落ちる時というのはああいうものかもしれない。
あのシーンでの「なんでもないや(movie edit) 」の前奏は、期待を孕んだ心臓の音にも聞こえる。でも音楽は超切ないんだよね。

長く続く感情といえば、もう一つは情熱と使命感。現実世界でもっとも大事なdriving forceの一つ。主要な登場人物は、みんな情熱と使命感で動いてる。伝統を継ぐ宮水の女性たち然り、衝動に突き動かされる三葉の父親然り、結末を変えるべく三葉となって動く瀧然り。

小道具や所作が象徴する各シーンの描写は、見るたびに「ああそうか」と気付かさせる面白さがある。例えば組紐は二人が御神体のところで出会うためのキーアイテムとして描かれていて、瀧が御神体のところへ向かうシーンで、東京で組紐を渡す三葉の記憶がリプレイされ、その次のカットで瀧に入った三葉が瀧の声に気づくとき、組紐を巻いた瀧の手首が否応なしに目に入る構図(画面のほぼ中央)とカラーリング(赤が映える配色)で描かれている。作画の妙。その後に、組紐が魂と一緒に三葉に戻るところも魅せる。因果が達成された瞬間。

この二人が御神体のところで出会うシーンは、時間が混在して描写されている。外の糸守湖ははじめ瀧/三葉のそれぞれの時間だったが、出会っているカタワレ時の間は3年前(彗星が落ちる前)。ところが、盆地の中は三葉(中は瀧)の時間でも、瀧として目覚めた三葉の時間でも3年後(御神体の周りが増水)の描写になってる。なので、二人の立つ盆地の端境が時間の境界。そこにカタワレ時(昼と夜の端境/文字通り「片割れ」となった夢の共有者たちが逢う時間、宮水の先祖が作った言葉か?)が重なってる。組紐のやり取りと相まって非常に作りこんである印象的なシーン。流石のクライマックス。

奥寺の立ち位置は面白くて、瀧の時間ではおそらくほぼ三葉と同じ年の女性で、瀧と奥寺の関わりが瀧と三葉の関係のpre-sequence(会って分かれて会って)になってる。奥寺と瀧がデートしているシーンと、三葉が東京に行くシーンの音楽は別曲として作曲されているが、モチーフがほぼ同じ(しかもこのモチーフには「三葉のテーマ」という曲名が付けられていて、「奥寺のテーマ」は三葉が奥寺のスカートを修繕しているシーンで使われている全然別の曲)、というところからも、この二人が表裏として描かれていることが伺える。おまけにこの二人は仲が良い!

二人が最後に出会うとき、瀧は時間を戻る必要があり(なので階段を登り)、三葉は進む必要がある(階段を降りる)。シーンはその前のカット(冬、夜、雨雪)から春の雨上がりへ。心理描写に繊細な風景描写を重ねるのは新海誠の真骨頂だが、今回は音楽がさらに秀逸。

ファンタジーなんだけどよく出来てると思わせる設定。なぜ世界はリブートしたか。三葉と瀧は彼らの時間で「最後に意識がなくなってそれが戻る」ところで入れ替わる。三葉は死んでしまって「意識が戻ら」なくなったのだけど、瀧(=三葉のハードコピー)が「幽世」たる御神体のところへ来ることで、死んだ三葉が瀧にエスケープできるようになった。瀧はどこに行くかというと、「三葉の時間で最後に目が覚めたとき」=死んだ日の朝に行く。かくして、三葉の最期の日は、未来を知っている人間によって再構築される。つまりリブートされる必然になっている。

「ムスビ」の考え方を新海監督がどこから発想したのかわからないけれど、この考え方は強く共感できる思想で。
あと、もう少し、自分の感情に正直になろうと。最近物事をロジカルで合理的に考えすぎるきらいがあるので。

(2016.12.8 追記・改変)